どうあがいても人は死ぬ

こんにちは。まりあんぐです。

 

暑い!

毎日とにかく暑いです。

その暑さたるや、新潟県でもセミが鳴き始めるくらいです。

まだ7月になったばかりなのにな。

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さて、そんな生き物の活力を感じる7月ですが、死ぬときは必ず来ます。

今回は、そんなお話をダラダラしていきます。

 

私が一番最初に「死」に触れたのは、祖母がひき逃げに遭って亡くなってしまったときです。

お葬式は自宅で行ったのですが、そのときはまだ死の実感は湧いていませんでした。実感が湧いたのは、大きなテレビを亡き祖母の部屋に運んで、そこを家族団らんの場にしよう、としたときです。

このとき、はじめて「ああ、祖母はもういないんだ」ということを感じました。

 

日々は過ぎ、私の祖父・祖母といえる存在はもういなくなってしまいました。

別にこのことがトラウマになっている、ということはありません。

ただ、多感な時期に祖父・祖母といえる存在を亡くしたので、「人より若干、死というものに触れているかなー」と自分では思っています。

 

そんな私は最近両親のことを考えます。

両親も生き物です。必ず死にます。

しかし、「あー、死んでほしくないなぁ」と最近考えだすようになりました。

 

多分、私が暇だからこんなことを考えるのでしょう。

忙しい人はこんなこと考えません。

しかし、先日に母からもらったメールの言葉が忘れられないのです。

 

「〇〇(私の名前)、私たちは年を取っていきます」

 

この言葉が、私の中にずっと存在しています。

 

事実です。私はもうアラサー。両親もそれなりの年齢なので、死を考えることは当然です。

でも、その言葉が、私にとって寂しくて寂しくて仕方がないのです。

 

できれば、ずっと生きていてほしい。そんな仕方のないことを考えてしまう。

ずっと健康なままで。ずっと元気な今のままで。

でも、それは不可能です。

 

なぜ、急にこんなことを書くようになったのか。

それはおそらく、実家の猫が腎臓を悪くして長くないということを伝えられたからだと思います。

ああ、また死んじゃうのか…と感じました。

(今はまだ元気ですが。むしろ太ったそうです)

 

今は、旦那が無事に帰ってくるたびに一安心する毎日を送っています。

今日も無事で良かった!お天道様に感謝!みたいな感じで。

 

大人になることって、身近に死を感じても自分の生活を続行できることなのかもしれません。

そしてそれは同時に、強さにも繋がるのではないか、と考えています。

 

そんなわけで、まりあんぐでした。

でででん。